2004/09/01

 2004/08/25に掲載した【耳障りな言葉、「感動をありがとう」「勇気をもらった」。】に対する感想やご意見をいただきましたので、ご紹介いたします。事務局といたしましては、なんらかのテーマに対してまとまったボリュームになった場合は、ひとつの項目を設けていこうと考えています。なかなかそうなりませんが。

メール1.
 おはようございます。
 全く私も同感です。ちょうど出勤途中のラジオから「感動をありがとう」の言葉に、感動はするものだ! とぶつぶつ言っていたばかりでした。

メール2
 久しぶりにAPIBAのホームページを開いて、なんとな〜く、おもしろくない気分にさせられました。なぜだろ〜と。トップを開いて、すぐ(意見投稿)なるものが登場する。その横には「北海道価格 反対!」のステッカー。投稿の意見としては頷けるところはあるものの、チョット、場違いな気がしないでもない。個人的な趣味の問題なのかも知れないけれど? 旭川の印刷業界として言葉を大切にしていこうということを啓蒙、推進していくのなら良いのだが。
 少なくとも「意見投稿された方」のお名前を入れられたらよかったのにと思っています。刺激の少ないホームページだから敢えての挑戦なのか、なにか、引っかけられて意見しているような気になってきた。できれば、「エッセイ」「行ってみよう」などと同列の項目に「意見投稿」欄を設けて互いの意見交換をした方がベストではないかと思うものです。

【事務局から】貴重なご意見をありがとうございます。今後ともさまざまなご意見・ご提案を是非ともお寄せください。




2004/08/25
(意見投稿)

 アテネオリンピックも終盤となり、日本選手の活躍が続いています。テレビで試合の模様を見ていると、今回に限ったことではありませんが、時おり「感動をありがとう」とか「勇気をもらった」という言葉にであいます。大和民族も随分と幼稚化したと実感するのです。

 こうした言葉に違和感を覚えるのはなぜか。感動は「するもの」であり勇気は「だすもの・持つもの」、どちらも個人の内面から湧き出るものであり人から与えられたり貰うものではない。逆に言えば感動を人にあげられないし、勇気を手渡すこともできない。なるがゆえに、感動や勇気は自分自身の見えざる心の世界に帰着する。激しく心が動いた時、それは外からもわかる形となって表情や瞳に現れてくる。

 こうした内面の変化すら言葉にしようとすることに「ムカつく」のであります。大した感動もしていないからこそ言葉にして補強してしまう「感動をありがとう」。勇気を必要とする局面にすらいないのに「勇気をもらった」。まるで幼児がことさら自分を主張しているかのようで聞き苦しい。

 「言語道断」という言葉の本来の意味は「言葉の表現すら超えている」ということです。感動や勇気とはまさしく言語道断の世界であって、屹立した個人の内面世界である。そう考えると個の確立なき人間にこそ「感動をありがとう」とか「勇気をもらった」という表現は似合っており、それが現代の大和民族の多数派なのかもしれません。

 精神的幼児化が進むために、自分の子供を虐待死したり車の中に放置してパチンコしたり大学生が集団で強姦したりすることも自然なことで、驚く方がおかしいのですね。

 国際社会のルールとして、あらゆる博士号の中で最も権威あるのは「哲学博士」です。人間そのものを見つめるからこそ最も深い敬意を表するのです。これがわからない日本の社会は、当分のあいだ幼稚化がすすむに違いありません。